はじめに:これは「誰かを責める話」ではありません
このブログは、僕自身が障がい当事者として、過去に感じていたことや、そこから見えてきた気づきを正直に書いたものです。
誰かを非難したいわけでも、正しさを押しつけたいわけでもありません。
むしろ、これを読んで「少し似てるかも」と思った方が、少しだけ心を楽にできたら――そんな思いで綴っています。
「やってもらって当たり前」の先にある“見えない孤立”
障がいを持って生きていく中で、誰かの助けが必要になる場面は多くあります。
僕も何度も、人に手を貸してもらいましたし、今もそうです。
でも、いつの間にかそれが「やってもらって当然」になっていった自分に、あるとき気づいたんです。
そうなると、「言わないとやってくれない」「やってくれないと不満だ」という感情が生まれ、
その不満は少しずつ態度や言葉に出てしまう。そして、結果的に人が離れていく。
そうやって、“支援されているのに孤立していく”という矛盾した状況に、自分を追い込んでしまうことがあるんです。
「してもらって当たり前」でもないけど、「申し訳ない」もいらない
じゃあ、支援は「ありがたい」と思わなきゃいけないの?
常に「申し訳ない」と言い続けるのが正解なの?――僕はそうは思いません。
大事なのは、「助けてもらうのは悪いことじゃない」と認めること。
でも同時に、「助ける側も、完璧じゃない」ことを理解すること。
つまり、「してもらって当たり前」でもなく、「してもらって申し訳ない」でもない。
一番近い言葉は、“困ったときはお互いさま”なのかもしれません。
「どうせわかってくれない!」という思いの裏側にあるもの
「どうせ、なったことない人にはわからない――」
僕は、心の中で何度もそうつぶやいてきました。
家族に対して、支援者に対して、周囲の人たちに対して。
「そんな簡単にわかったような顔をしないでほしい」
「こっちは必死なのに、あなたたちはただの“見物人”でしょ」
そう思っていたし、正直に言えば、今でもふと湧き上がることがあります。
でも、ある日ふと、こんなことを考えました。
💭 自分は「うつ病になった人間」としての苦しみは知っている。
でも、「うつ病の家族」になったことは、一度もない。
じゃあ、僕は
「大切な人がうつ病で苦しんでいるときの“家族の気持ち”」
を、どれだけわかっていたんだろう?
そのとき、心にストンと落ちたんです。
👣 本人にしかわからない気持ちがある。
でもそれは、障がいがあってもなくても、誰にでもあることなんだ。
「わからないのは、あなただけじゃない」
でも同時に、「わかろうとしてくれる人がいる」ということも、
私はちゃんと見ないといけなかったのかもしれない――
「わかってくれない!」の奥には、
実は、“わかってほしい”という願いがあったんです。
そして僕は、その気持ちすらも、
伝えずに、押し殺していた。
このことに気づいたとき、
ほんの少しだけ、世界の見え方が変わりました。
🌱 それぞれが、それぞれの立場で、
何とか支え合おうとしていたのかもしれない。
「誰もわかってくれない」って、決めつけてたのは――
実は、僕自身だったのかもしれない。
これが、僕がいま、ようやく言葉にできるようになった「気づき」です。
これを読んでくれたあなたにも、何か届けば嬉しいです。
「自分ばっかり大変だ」と思っていた過去を振り返って
あの頃の僕は、「自分が一番しんどい」「誰もわかってくれない」と思って、
家族や周りの人に、ひどいことを言ったり、冷たくあたったりしていました。
でも今は、それが“相手の気持ちを想像する余裕がなかっただけ”だったとわかります。
僕が苦しかったのは本当。でも、相手もどうしていいかわからず、悩みながらそばにいてくれていたのかもしれません。
終わりに:「思いやる」ことは特別なことじゃない
障がいがある・ないに関係なく、「気持ちは伝えなきゃ伝わらない」し、
「わからないのは、お互いさま」なんだと思います。
「自分ばかりが大変だ」と思うときほど、ほんの少しだけでも、
相手の立場や気持ちを想像できたら――きっと、景色は変わってくるはずです。
これは、自分に言い聞かせながら書いている言葉です。
いつでもできることではないし、完璧にできることでもないけれど、
そうやって、少しずつ自分を見つめ直す中で、
支援も、関係も、「一方通行じゃない形」に変えていけるんじゃないかと思っています。
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