はじめに
現在、私は障がい福祉分野を中心に支援する行政書士として活動しています。
障がい福祉事業所の書類や運営を支援する際、私が大切にしていることがあります。
それは、目の前の人が自分から「困っています」と言えるとは限らない、ということです。
相談内容を順序立てて説明できるとも限りません。必要な制度や支援の名前を知っているとも限りません。
そう考えるようになった背景には、私自身がうつ病を発症し、誰にも頼れないまま孤立した経験があります。
この記事は、うつ病の治療方法や制度の利用方法を解説するものではありません。
私自身の体験を通して、支援を必要としている人が支援につながることの難しさと、現在の行政書士としての支援姿勢の原点をお伝えするものです。
うつ病の始まりは、身体の不調でした
私が最初に感じた異変は、気分の落ち込みではありませんでした。
ある日、強い胃の痛みに襲われ、内科を受診しました。
胃カメラによる検査を受けても、身体的な異常は見つかりませんでした。
問診を受けるなかで、医師から心療内科の受診を勧められました。そこで初めて、私はうつ病と診断されました。
当時の私は、自分がうつ病になるとは考えていませんでした。
身体がつらいことは分かっていました。しかし、それが心の不調から来ているとは、すぐには受け入れられませんでした。
うつ病は、本人が「心の病気かもしれない」と自覚して始まるとは限りません。
身体の痛み、不眠、食欲の変化、強い疲労感などから表れることもあります。
私の場合も、身体の不調が最初のサインでした。
休職して初めて分かった、生活を続けることの重さ
診断後、私は半年以上休職することになりました。
当時は一人暮らしでした。
休職すれば、仕事から離れてゆっくり休める。
外から見れば、そう思われるかもしれません。
しかし、病気になっても生活は止まりません。
病院を探すこと、通院すること、食事を用意すること、洗濯をすること、部屋を片付けること、必要な書類を確認すること。
元気なときには当たり前にできていた一つひとつのことが、大きな負担になりました。
仕事を休んでいるという罪悪感もありました。
焦ってもすぐには治らない。
それでも、時間だけは過ぎていく。
その感覚が、とても怖かったことを覚えています。
傷病手当金を、自分では見つけられませんでした
休職中の生活を支えてくれた制度の一つが、傷病手当金でした。
ただし、私はその制度を自分で調べて見つけたわけではありません。
上司から教えてもらい、初めてその存在を知りました。
傷病手当金によって、経済的には少し救われました。
一方で、この経験から強く感じたことがあります。
制度が存在していることと、必要な人が制度を利用できることは、同じではありません。
体調を崩しているときは、制度を調べること自体が難しくなります。
どこへ相談すればよいのか分からない。
説明を読んでも頭に入らない。
電話をかけることさえ負担になる。
必要な書類をそろえようとしても、途中で動けなくなる。
制度を必要としている人ほど、自分から制度を探し、手続きを進める力を失っていることがあります。
私は、まさにその状態でした。
家族に頼れなかったのは、心配をかけたくなかったからです
実家は同じ市内にありました。
それでも私は、家族に自分の病状を伝えませんでした。
心配をかけたくない。
迷惑をかけたくない。
弱っている自分を見せたくない。
そのような思いがありました。
たまに家族と会うときも、何でもないように振る舞いました。
しかし、無理をして元気なふりをした翌日は、必ずと言ってよいほど体調が悪化しました。
それでも私は、「大丈夫な自分」を演じ続けました。
助けてほしいと言えなかったのではありません。
当時は、助けを求めるという発想そのものを持てなかったのだと思います。
父の危篤と葬儀でも、「大丈夫な自分」を演じました
そのような時期に、7歳で離れて以来、音信不通だった父親が危篤だと知らされました。
兄から、父の後見人と連絡を取る役目を頼まれました。
自分の心身は限界に近づいていました。
それでも私は、家族の前では自分が役割を果たさなければならないと思っていました。
父の葬儀のために関東へ向かい、与えられた役割をこなしました。
当時の記憶を振り返ると、悲しい、苦しい、つらいという感情よりも、何も感じられない「無」の状態に近かったように思います。
本当は限界を超えていたのに、それを自分でも認められていませんでした。
倒れて初めて、一人では限界だったと気づきました
その後、私は一度復職しました。
しかし、ある日、体調を大きく崩し、自宅で3日間倒れていました。
会社が家族へ連絡してくれたことで、母や兄に、私の状態が初めて知られることになりました。
涙を流す母を前にしても、私は何も言えませんでした。
ただ、そのとき初めて、
「もう一人では限界だった」
と気づきました。
自分では、ぎりぎりまで何とかできているつもりでした。
しかし実際には、誰かが気づき、連絡し、生活を支えてくれなければならない状態になっていました。
支援につながったきっかけは、私が助けを求めたことではありません。
周囲が異変に気づき、動いてくれたことでした。
母との同居を通じて、病気と向き合い直しました
その後、私は母と同居することになりました。
最初の数か月は、情けなさと無力感が強く、ほとんど何もできませんでした。
大人になってから、再び親に生活を支えてもらう。
そのことを、当時の私は素直に受け入れられませんでした。
自分は何をしているのだろう。
どうして普通に働けないのだろう。
家族に迷惑をかけているのではないか。
そのような思いを何度も抱きました。
しかし、母との生活によって、食事や生活環境が少しずつ安定しました。
一人ですべてを抱えなくてよくなり、ようやく病気そのものと向き合う余裕が生まれました。
病気と向き合うためには、本人の努力だけではなく、安心して生活できる環境が必要なのだと感じました。
福祉サービスを、自分で探し始めました
退職後、体調を見ながら、利用できる福祉サービスについて少しずつ調べ始めました。
そこで知ったのが、就労移行支援事業所でした。
それまでの私は、働くことについて、
「元のように働けるようになるか」
「一般企業に戻れるか」
という基準でしか考えていませんでした。
しかし、福祉サービスについて調べるなかで、働くための準備をする場所や、支援を受けながら社会との関わりを取り戻す方法があることを知りました。
その後、就労移行支援、障がい者雇用、トライアル雇用、A型事業所などを経験しました。
ただし、そこから順調に回復したわけではありません。
障がい者雇用で働いた職場を退職したこともあります。
A型事業所も、一つは退職しました。
体調には波があり、働き始めても続けられないことがありました。
少し前に進んだと思ったら、また後ろに戻ったように感じる。
その繰り返しでした。
それでも振り返ると、自分自身も家族も、病気との付き合い方を少しずつつかんでいったのだと思います。
回復は、一直線ではありませんでした。
じれったくなるほどゆっくりと、できることが増えていきました。
「働き続ける」の意味が変わりました
主治医、支援員、そして母。
多くの人に支えてもらうなかで、私の「働くこと」に対する考え方は変わりました。
以前の私は、フルタイムで働き続けることや、一般企業で安定して働くことが、正しい働き方だと思っていました。
そこから外れると、自分は働けていない、役に立っていないと感じていました。
しかし、働き続けることは、必ずしもフルタイムで働くことではありません。
体調に合わせて働く時間を調整すること。
支援者に相談しながら働くこと。
福祉サービスを利用しながら社会と関わること。
一度休み、状態を整えてから再び挑戦すること。
それも、働き続けるための一つの方法です。
振り返れば、私の40代の多くは、体調と仕事の両立を模索し続けた時間でした。
現在も通院と服薬を続けています。
完全に治癒したと言える状態ではなく、体調への不安がなくなったわけでもありません。
それでも、以前よりは、自分の状態を理解し、無理をしすぎる前に立ち止まることができるようになりました。
制度があるだけでは、支援にはなりません
傷病手当金も、就労移行支援も、障がい者雇用も、A型事業所も、制度や仕組みとしては存在していました。
しかし、私はその多くを知りませんでした。
知ってからも、すぐに利用できたわけではありません。
自分に合うのか分からない。
何を相談すればよいのか分からない。
利用した結果、かえって傷つくのではないか。
失敗したらどうしよう。
そのような不安がありました。
制度の名前を教えるだけでは、支援につながらないことがあります。
相談窓口を案内するだけでは、そこへ連絡できないこともあります。
書類を渡すだけでは、手続きを進められないこともあります。
支援を必要としている人ほど、自分の状況をうまく説明できなかったり、「助けてほしい」と言えなかったりすることがあります。
だからこそ、支援する側には、本人が話せる範囲から状況を一緒に整理する姿勢が必要だと考えています。
私が行政書士として大切にしていること
私は現在、障がい福祉分野の行政書士として、福祉事業所の運営や書類整備などを支援しています。
事業所支援と、私自身の闘病経験は、一見すると別の話に見えるかもしれません。
しかし、私の中ではつながっています。
福祉事業所の運営上の問題も、最初から整理された状態で相談されるとは限りません。
何が問題なのか分からない。
書類がどこにあるのか分からない。
どこから手をつければよいのか分からない。
行政から指摘されるのが怖くて、状況を直視できない。
そのような状態から相談が始まることもあります。
だから私は、相談者に最初から完璧な説明を求めないようにしています。
分かっていることと、分からないことを分ける。
できていることと、できていないことを整理する。
一度にすべて解決しようとせず、今からできることを見つける。
行政書士だけでは対応できない内容については、必要に応じて他の専門職や支援機関へつなぐ。
制度や手続きの名称を伝えて終わるのではなく、その人や事業所が次の一歩を選べる状態まで一緒に整理する。
それが、私の目指す支援です。
あのときの自分を助けるように
うつ病になった当時の私は、制度を知りませんでした。
誰かに頼る方法も分かりませんでした。
家族に心配をかけたくないという理由で、一人で抱え込みました。
助けを求める言葉さえ持っていなかったと思います。
それでも、上司、会社、家族、主治医、支援員など、多くの人に支えてもらいました。
自分一人では見つけられなかった制度や選択肢を教えてもらいました。
うまくいかず、仕事を辞めたこともあります。
遠回りに思える時期もありました。
それでも、少しずつ社会との関わりを取り戻し、現在は障がい福祉分野の行政書士として活動しています。
あのときの自分を助けたい。
自分を支えてくれた人たちへ、少しでも恩返しをしたい。
その思いが、今の仕事の原点にあります。
まとめ|支援を求められない人がいることを忘れない
支援を必要としている人が、自分から助けを求められるとは限りません。
困っている理由を、順序立てて話せるとも限りません。
制度を知らないことや、手続きを進められないことを、本人の責任だけにしてはいけないと私は考えています。
支援につながるためには、
- 周囲が変化に気づくこと
- 安心して話せる関係があること
- 状況を一緒に整理する人がいること
- 一度失敗しても、別の方法を考えられること
- 本人のペースを尊重すること
が大切です。
私自身、支援を求められなかった一人でした。
その経験があるからこそ、現在は、相談者が言葉にできていない不安にも目を向けたいと思っています。
制度や書類を扱うだけではなく、その先にいる人の生活や迷いを想像すること。
それが、ピア行政書士として私が大切にしている姿勢です。
制度があるだけでは、必要な人が支援につながれるとは限りません。
自身の障がいや福祉サービスの利用経験を踏まえ、田中慶が相談者や事業所と向き合う際に大切にしていることをご紹介します。
ピア行政書士・田中慶の支援姿勢を見る
