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「わかるつもり」が一番危ない──身近な人ほど誤解する共感

目次

はじめに:「共感って、あたたかいもの」…のはずだった

「共感」って、優しい言葉のはず。
相手の気持ちを想像して、寄り添って、理解を示すこと。
だけど実際には、その“つもり”が、かえって人を深く傷つけてしまうことがある。
しかも、それが一番起きやすいのは、親しい人との関係の中だったりする。

この記事では、僕自身のしんどかった経験をもとに、「共感」の難しさと、
そこにある誤解やすれ違いについて
正直に綴ります。

しんどかった時、相談した“あの一言”で心が閉じた

僕が本当にしんどかった時期。
心の中に溜め込んだ苦しみを、ようやく口に出して伝えたことがある。
それは、すごく勇気のいることだった。
でも、その時返ってきたのは──

「わかる、わかるよ」

「そういうことなら、私にもある」

この二つの言葉だった。

最初に感じたのは、「軽いな…」という感覚。
“わかる”と連呼されるたびに、僕の苦しみが「通り一遍のもの」にされた気がした。
後者はもっとつらかった。
今、自分の話をしているのに、いつの間にか“相手の経験談”にすり替わっていたから。

ああ、もう相談するのやめよう──
そう思ってしまった。

「わかる」って、そんなに簡単に言えるものじゃない

もちろん、その人に悪気はなかったと思う。
むしろ、「何とかしてあげたい」と思ってくれていたのかもしれない。
でも、だからこそ、怖い。

「わかる」と言われると、一瞬は安心するかもしれない。
でも、本当の苦しみや孤独って、他人に簡単にわかるもんじゃない。
僕は、他人の痛みを“理解する”なんて、たぶんできないと思ってる。
だからこそ、「わかりたい」と思うことの方が大事なんじゃないかって思う。

共感って、「わかること」じゃなくて「わかろうとすること」だと思う

心に寄り添うって、きっと「わかってあげる」ことじゃない。
むしろ、「完全にはわからないけど、それでも、わかりたいって思ってる」
──その姿勢が伝わるだけで、救われることもある。

簡単な言葉よりも、真剣なまなざし。
的確なアドバイスよりも、ただ黙ってそばにいること。
そういう“共感のあり方”って、あると思う。

だから、僕は「わかる」ってあんまり言いたくないし、
言ってほしくない。
その代わりに、「今の話、ちゃんと聞いたよ」「分かろうとしたい」って伝えたい。
その方が、ずっとあたたかい気がする。

身近な人ほど、「わかったつもり」になっていないだろうか?

親や兄弟、恋人、パートナー、友人、同僚…。
近くにいる人ほど、「あの人のことはわかってる」と思いがちだ。
でも、それって本当に「わかっている」ことなんだろうか?

むしろ、一番近くにいるからこそ見えないことや、
勝手に期待を押しつけてしまうこともある。
「わかるつもり」でいると、いつの間にか相手を置き去りにしてしまうことがある。

たとえば、苦しんでる人に「こうすればいいよ」とアドバイスしたくなるとき。
それは“理解”じゃなくて“操作”になってないだろうか。

おわりに──「わからなくていい。でも、わかりたいと思っていたい」

共感って、シンプルなようで、本当に難しい。
でもだからこそ、「わからなくても、わかりたいと思っている」
その気持ちが、共感の本質なんじゃないかと思う。

あなたが誰かの苦しみに出会ったとき、
言葉を探してしまうかもしれない。
でも、何も言わなくても、寄り添えることはある。

そして、もしあなた自身がしんどい側だったなら──
「わかる」と言ってくれる人よりも、
「わかりたい」と本気で向き合ってくれる人を、大切にしてほしい。

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