その言葉、配慮?それとも偏見?
「私は、障がい者だから」
「あなたは、障がい者だから」
同じ内容でも、主語が変わると、受け取り方がまったく違うと感じたことはありませんか?
前者は、自分の立場を受け入れたり、必要な支援を求めたりする表現。
でも、後者になると、とたんに“上からの線引き”のように聞こえることがあります。
大切なのは、その言葉の「主語」だけでなく、「意図」と「文脈」です。
「区別」は事実にもとづいた合理的な配慮かもしれません。
でも、無意識に「できない前提」で接してしまったとしたら、それは差別になる可能性もあるのです。
支援の現場で感じた「線引き」の難しさ
就労継続支援の現場で、あるこんな出来事がありました。(私自身が利用者として体験した内容に基づいたフィクションです)
みんなである作業に取り組む場面で、支援員さんが一人の利用者さんに向かって、
「〇〇さん、これってできないよね?」と聞いていました。
利用者さんは「できない」と答え、その作業には加わりませんでした。
このやりとり、どう感じますか?
おそらく支援員さんは、無理をさせたくないという“配慮”のつもりだったのでしょう。
確かに、障がい特性によって「できること・できないこと」が違うのは事実です。
でも、もしその作業が初めてのものだったとしたら?
もし本人がチャレンジしたい気持ちを持っていたとしたら?
「できないよね?」という前提の確認は、チャンスを奪う言葉にもなりうるのです。
忙しい現場では、効率や経験にもとづいた判断が必要になる場面もある。
でも、だからこそ、「その区別は本当に“相手のため”か?」という問いは忘れたくありません。
「配慮」は時に、見えない“我慢”を生むことも
別の場面では、ある利用者さんが、作業のスピードが遅いことを気にして、
「遅くてごめん」と何度も繰り返していました。
支援員さんは、「急いでないから大丈夫」と優しく声をかけていました。
この対応は、間違いなく配慮です。
焦らせず、責めず、相手のペースを尊重する姿勢が伝わってきます。
でも、その利用者さんが何度も謝る背景には、
「もっと早くやらなきゃ」「足を引っ張ってるかも」という自己否定の気持ちがあったのかもしれません。
だとしたら、本当の配慮は「作業のやり方を変える」「別の役割を用意する」ことだったのかもしれません。
“できない自分”を責めさせないようにするにはどうしたらいいか。
ここにも、「差別と区別のあいだ」で揺れる、現場のリアルがあります。
制度は線を引く。でも、心は柔らかくありたい
行政書士として制度に関わる立場になると、
どうしても「対象者か否か」「できる・できない」を明確に線引きする必要があります。
それは、仕組みを公平に運用するために、どうしても避けられないことです。
でも、人の気持ちは、そんなにスパッとは切り分けられません。
制度の線引きが必要な一方で、
その線の外にいる人の声に耳を傾けることも、
これからの福祉に関わる行政書士の大事な役割だと、私は考えています。
違いを認めることは、あきらめることじゃない
「差がある=劣っている」わけじゃない。
「できないことがある=役に立てない」わけでもない。
本当の意味での“配慮”とは、
違いをなかったことにするのではなく、違いを認めたうえで、一緒にできる方法を探すこと。
差別をしないために、言葉を選ぶ。
でも、“事実”を言わないことで、逆に相手の可能性を狭めてしまうこともある。
だからこそ、言葉の奥にある“意図”や“まなざし”が大事だと思うのです。
おわりに──「ちがい」を越えて、ともに生きるために
差別と区別。
配慮と決めつけ。
制度と気持ち。
そのあいだには、グレーゾーンがたくさんあって、いつも迷いながら考えています。
でも、その迷いこそが、誰かを“人として見る”ために大切なものなんじゃないかと思います。
私は、制度の中にある「線」だけを見ない行政書士でありたい。
そして、“できる・できない”の前に、“一緒に考える”ことを大切にしたい。
この記事が、誰かにとって“見分けるヒント”になれば嬉しいです。
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